Kik
Himito na Kyoto
10年ほど前に、ある友達が私に意見を求めてこう切り出した。「世の中、人間のある種の行動を表す言葉が足りないよね。」友人は続けた。「人間の気分、感情、望みとかって、デリケートで様々な細部があるし、多種多様にわたるでしょ。でも人間の行動に対する種類分けや呼び習わし方には限りがあるから、ある種の行動はよく見過ごされたり、うっかり忘れ去られたり、すでにある定義の中に無理やり押し込められたりしている。それが痛くも痒くもない人もいるし、窮屈な思いをしている人もいるのよ。」腑に落ちない顔の私に向かって、友人は例を挙げた。人間関係を表す言葉として「友達」「恋人」「お付き合い開始期間中」「愛する人」「夫」「妻」「浮気相手」というような呼び方はある。でも友達以上恋人未満の関係をうまく表している言葉がない。「実際世の中にはそういう深い感情が絶対あるよ。同性に対してのことも異性に対してのこともあるけど、どうしたって友達とは言えないドキドキ感がありつつ、でもいわゆる「愛する人」というのとも違う。人生のパートナーとして共に生きたいということではないけれど何か特別で、友人と恋人の間にある存在、っていう感じかなあ。」
ぴったりくる言葉がないとなると、誰かに対してそんな感情が起こったとしても、(そんな関係があるとは思い及ばないため)自動的に気持ちは打ち消されてしまう。でも言ってみれば友達ってことだよね、と納得するか、やっぱり好きなのかもと思い直して、結局はやっぱりそんなんじゃない、どうせ一緒にはいられないとストレスを感じることになったりする。
人間の自由は実際に使われている言葉によって制限されているよ、と友人は投げやりな感じで結論しながら、ため息混じりに締めくくった。「つまんないよね。友達以上恋人未満って絶対あるけど、ぴったり来る言い方がないのってさ。」
「kik」という言葉を初めて耳にした時まず思い浮かんだのは、この友人との会話で、私は「やった!」と心中で快哉を叫んだ。10年前にああだこうだと話をしたことを友人は忘れているかもしれないが、こう言いたかった。「これだよこれ。微妙な人間関係を表現する言葉がないって残念がっていたけど、今の若い子達の中にはなかなか鋭いのがいてうまい言葉を創り出してるよ。kikっていうのがそれ。」
友人が言っていたような関係や感情を表す言葉があるとなれば、そういう関係のあり方に想像を膨らませる機会が増えた、ということである。言ってみれば、今の人間は友達、恋人、愛する人の他にまだ ‘kik’ というものを持つことができる。面白いのは、kikは複数持つことが可能だが、いわゆる友達ほどには、誰の友達だの誰が友達だのと勝手にいうことはできない。知っている(どれほどよく知っているかはさておき)誰かを「友達」と呼ぶのとは重さが違って‘kik’ はそれよりはシリアスな感じがあり、軽々と誰かを「私のkik」と呼ぶのはちょっと違う。
‘kik’ は最近の造語であり、私自身の生活が「今の子」の社会とは遠いものなので、この言葉がどうやって生まれてきたかには私は疎い。ただ、身の回りの人間の行動や、誰彼から聞いたことを自分なりに整理してみると、‘kik’ という関係はかなり融通の利くもので、こうと決まったあり方はまだ定まっていないようだ。‘kik’ ならこうしなければいけないとか、何か間違いがあったら‘kik’ 関係がたちどころに崩れたりすぐにも身を引かねばならないというものでもないらしい。‘kik’ であるというのは、当事者同士の同意事項に基づくかなり個人的な理解の上に成り立つもので、社会や政府、宗教といったものの介入はまだ見られない。また、関係性自体がかなり自由の利くもののようで、「ひどいkik だ。」とか「どうしようもないkik なんだから。」と愚痴っている人はあまり見かけない。というのもkik であることの「一般的」な基準や、kik とは何か、という疑問に対し、全ての人に同じような理解を持たしめる規定力はまだないからである。友達、恋人のように指すところがはっきりした関係とも違うし、ましてや夫婦関係が法律にまでそのあり方を支えられ、たとえば家族を養うだけの稼ぎがない男はだめな夫だと即決されているのとは大違いだ。
が、チュラロンコーン大学の学生による調査に関する ‘kik’ 関連の最近のニュースを耳にして、‘kik’ のあり方の構造がかなりはっきりした形を持つようになってきたことを感じた。少なくとも、ある規則性を持って特徴をとらえ、種類わけをし、説明をつけ、意味づけすることがインタビュー調査によって行われたのである。言ってみれば、‘kik’ はどういうものかということが、より明確になったように思える。その結果、見過ごせないのは ‘kik’ の曖昧で変化自在な定義づけがもう少し固定的になったということである。例えば、インタビュー結果から引き出される ‘kik’ の役割を見てみよう。「kik は自らのおかれた状況と立場を知る必要があり、ずうずうしく要求してはならない。kik とは、友達にする以上に心を配る相手でありながら、恋人と捉えたり、深い関係になるほどの愛を感じる相手ではない。」(日刊マティチョン、2004年1月13日)
極端にオーバーな言い方をすれば、この調査は ‘kik’ 的な関係に対する(社会学調査の知識と方法論の)権力の介入とも言える。知の権力から始まって、今後、国家権力、宗教権力などが次第に割り込んでくるかもしれないし、最終的には ‘kik’ の制度的なあり方がしっかりと確立することもありうる。もしそんなことになれば残念だ。‘kik’ を持ったり誰かの ‘kik’ であることを定義づけから自由にしていた曖昧な位置づけが損なわれるからである。そうなればまた新しい言葉を探し出すために貴重な時間を費やさねばらない。
これは酔狂な私が思いつくにまかせて考えただけのことである。
‘kik’ なんて浮気や目移りの言い訳じゃないかという友人もいる。kik は間男や間女と言ったら刺激が強すぎ、いかにも我慢のならぬ行いという悪いイメージを避けるため代わりに使われている「低温殺菌」語で、くすくす愛をささやきあっている、を意味し、なんだか守ってあげたくなるイメージのある ‘kuk-kik’ という語の連想からごまかしているに過ぎない。‘間男、間女’ は性的な連想が強すぎるし、過ちをごり押しし、無責任で感情に任せた状態を示す語である。それに対し ‘kik’ はまるで開いたばかりの花のようなすがすがしい香りがし、決して害毒にはならず道徳にも反していないイメージがある。ということは、‘kik’ という言葉は男性というより女性の側の必要性によって生まれた語ではないのだろうか、と私は感じた。
特に愛しているのでもない相手、恋人、妻以外と関係を持つことは、男性にとってはそれほどの一大事ではないとされている。「間女がいる」と言わないまでも、「愛人」がいるとなれば、それはつまり「妾」がいることである。妾という名にふさわしく面倒を見ているかどうかはさておき、社会はそういう言い方をすることを認めている。これに対し、愛人というほど長きにわたって付き合うのではなく、その時々の行き当たりばったりの関係であれば、男のそんな行動は、家の外でちょっとしたお楽しみ中とか、色事で息抜き中、いずれにせよあまり深い意味はないよ、という言い方をされる。恋人がいようが妻がいようが男は別の女と付き合ってもいいし、そのことで気が咎める必要もない(妻には悟られない形で、とか家族に対する義務をきちんと果たした上で、とか、妻の家庭における地位を愛人に脅かさせない形で、などの条件の上で)。ということはつまり、男性にとってはわざわざ ‘kik’ などという言葉を持ち出してくる必要性はないのではないか。
これに対して、女性の場合はどうだろう。少なからぬ数の女性の中が一夫一妻制の枠の中に収まりこむことを窮屈に感じているのは否定しがたい事実である。罪の意識があるにせよないにせよ、夫以外の男性とひそかに付き合っている女性もいるのは今に始まった事実ではない。また、夫以外の男性と付き合いたいと心から思いながらも、罪の意識を引き受ける覚悟が決まらない女性となればさらに数が多くなるだろう。もし、‘kik’ 現象がティーンエージャーから、結婚している世代、子供のいる世代にも流行した場合、‘kik’ は一生に一人の男性しかもてないという飽き飽きするような状態から、「間男がいる」と後ろ指を差されることなく逃れる道を開くのかもしれない。というのも、‘kik’ は性的な関係を含むのかがまだはっきりとしていないし、夫からは何十年も期待できそうにないロマンティックな何かを指しているだけなのかもしれないから。
結論的に言えば、‘kik’ は間男、間女がいることの言い訳ではなく、かなり持ち重りがして硬直した家族というものの風通しをよくする形で支えてくれるような新しい関係性の地平を開く役割を持っているのかもしれない。‘kik’ が正確に何を指しているにせよ、その意味がまだ曖昧な現在においては、それぞれが ‘kik’ を試みたり自分なりの定義づけをしてみる余地がまだある。少なくとも、友達以上恋人未満という、今までは心中に秘められてきた状態がはっきりと姿を現し、あれこれと試してみる対象になったことは、実はそんなものが本当はなかったとしても、なかなかいいことじゃないか、と私は思う。
Himito na Kyoto is a pen name of Lakkana Punwichai, a Thai columnist who writes for magazines and weekly newspapers about food, sex, and politics. Her lastest book is a cookbook for people who live alone. This essay first appeared in Siamrath Weekly in 2004. It was translated from the Thai by Somjit Jirananthiporn.
Kyoto Review of Southeast Asia Issue 8/9 (March/October 2007)
©Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University
Kyoto Review of Southeast Asia Issue 8/9 (March/October 2007)