外交部機密文書から見た中国-ミャンマー関係における華僑問題
範宏偉
volume 10


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1.中国・ミャンマー国交成立初期の両国関係(1950-1953)
1950年6月8日、中国とミャンマーは国交を成立させ、ミャンマーは新中国が承認する初の非社会主義国家となった。しかし、国交成立初期の両国の関係発展は緩慢で、双方に懐疑や不信が満ちていた。特に独立を果たしたばかりで、強烈な民族主義者であったミャンマー国家指導者は新中国に対して疑懼を抱いていた。たとえば、1950年に在ミャンマー大使館外交部への報告には次のようなものがあった。「ミャンマー政府は我が国の国慶の祝いに懸念を抱いているようで、さらに妨害を敷衍する方法をとった。ミャンマー政府は私がこの機会を利用して政治的影響を拡大させようとしていることを知っているが、止める術はなく、我々が相手方の来賓を相談しようとしても、名簿を提出しようとしないし、出席者名簿を斟酌している様子もない。会場の装飾も困難な状況である」「彼らはこの祝賀会で我々の動向をさぐろうとしている」【1】。
ミャンマーの中国に対する疑念や恐れは、ミャンマーの指導者たちも何度表明していた。ミャンマー首相ウー・ヌーは、「周恩来総理がヤンゴンにいらっしゃる前(1954年周恩来総理初訪中)は、両国の人民の間に疑念があるということを認めなければならない。ミャンマーにおいては、中国に対し一種の恐れとも言える心情を抱いている者は少なくない。それはつまり、中国がミャンマー政府を破壊するのではないかということである。一方、中国においても、当時はやはり一種の恐れがあった。ミャンマーが真の独立国家なのかどうか、やはりイギリスかアメリカの手先なのではないか、ということである。」【2】。1954年ミャンマー上議院議長サオ・シュエ・タイクは来訪した周恩来に対し「ミャンマー北部の人民は国民党の騒乱に煩わされ、中国政府と国民党がミャンマーで戦争をするのではないかと恐れている」、「ミャンマーは小国であり、隣国との友好関係を保っていかなければならない」と述べている【3】。1957年12月、ミャンマー副首相吴觉迎と毛沢東が北京において会談した際、こう述べている。「ウー・ヌー首相がまだ中国にいらっしゃる前、つまりは毛主席にお会いする前ということですが、ミャンマーにとって中国は確実に恐怖でありました。なぜなら、ミャンマーは小国、中国は大国だからです。」【4】。
ミャンマーは独立後、中立外交政策を実施してきた。中国・ミャンマー間の国交成立初期、ミャンマー側は非常に慎重であった。それは中国と接触しすぎることで欧米側の恨みを買いたくないのと同時に、欧米側との密なやりとりで中国を怒らせたくなかったからである。これに対し、外交部が公開した機密文書の中で、この外交政策について分析した部分があり、ミャンマーが中国と隣り合っているという一面が見える。「帝国主義に頼る勇気がなく、中国を敵とみなしている。同時に……ミャンマーと帝国主義の間に矛盾が発生した時、中国とソ連の支持を得ようと考えている」。その一方で、「ミャンマーの統治階級は独立を要求しているが、帝国主義と未ださまざまな関係を保持しており、相当な部分を帝国主義に依存している」。つまり、ミャンマーは外交において、欧米の影響を完全に払拭できていないのである【5】。
中国・ミャンマー関係において、ミャンマーはつかず離れずの戦法をとっており、1954年の周恩来のミャンマー訪問前に明らかとなった。たとえば、1950年10月、ミャンマー外相が駐ミャンマー大使姚仲明との会見の際、姚大使が当地の華僑大会において使用した、アメリカ帝国主義反対という言葉遣いは不適切であり、「トラブルを避けるためにも、ご注意いただきたい」と言及した【6】。1951年10月18日の「雲南日報」に、世界平和大会主席德钦伦の文章、「ミャンマー人民は世界平和のために努力していく」を掲載した。ミャンマー側は文中で、「アメリカ帝国主義とは「経済援助」という美しい関係であり、ミャンマー各地に飛行場を建設している」と述べ、アメリカはミャンマーを利用し、「帝国主義反対の急先鋒として中華人民共和国に対し、破壊を行う」【7】とした。否認するだけはなく、中立かつ善隣政策を重ねて言明した【7】。そのうえ、外交部に対し、「雲南日報」に「不正確である」とする説明文を掲載するよう要求した【8】。
中国-ミャンマー国交成立初期の両国関係が疎遠な背景には主に以下の要因がある。一つ目は、両国の新指導者が見知らぬ間柄であり、猜疑にさいなまれていたこと、二つ目は、華僑問題、三つ目は、中国・ミャンマー間の国境が定まっていなかったこと、四つ目は、ミャンマー北部の「ゴールデントライアングル」の国民党の問題、五つ目は、地縁と歴史要因、六つ目は冷戦である。そのため、ミャンマーは最も早く新中国に承認された非社会主義国家ではあったが、上記の原因により、国交成立初期における両国関係が希薄となってしまったのである。1954年6月、周恩来がミャンマーを訪問し、両国がともに「平和共存」五つの原則を発表した後、中国・ミャンマー間の関係は急速に発展した。続けて、双方をとりまく関心や問題が協議され、疎通するようになっていった。アメリカの学者ウィリアム・スキナーは、戦後東南アジアが発展にともない、華僑における緊迫した4つの問題が中国と東南アジア各国間で解決が待たれていると考えた。それは、(1)全東南アジアの非農業経済の主要領域である華僑経済効果問題の掌握、(2)華僑教育問題、(3)華僑の法律上の身分、及び二重国籍問題、(4)華僑と東南アジア新独立国家の政治整合問題である【9】(p.138)。20世紀の50年代において、中国政府はミャンマーにおける華僑問題の懸念を払拭するために、さまざまな方面に論及し、たゆまぬ努力を行ってきた。
2.華僑国籍問題
第二次世界大戦後、中華人民共和国樹立にともない、東南アジア国家の独立と冷戦が始まった。華僑の身分の境界と帰属問題は新中国と東南アジアの発展において不可避となった。冷戦下、東南アジアの新興民族主義国家における華僑は、往々にして民族主義と意識形態の二重の攻撃目標となったのである。華僑問題の中でも特に「二重国籍問題」は、東南アジア国家が華僑の忠誠を疑う根拠の一つとなっていた。そのため、中国政府は、東南アジア国家が中国が華僑を利用し、「第五縦隊」にせんとする疑いを払拭するために、華僑国籍問題の解決に力を尽くしてきた。20世紀50年代初め、ミャンマー華僑は35万人であった。当時の両国の国籍法によると、法律上、華僑の中で「二重国籍」問題を抱えているのは26万人前後とされ、ミャンマー華僑全体の74%を占めていた。そのため、彼らの国籍問題が解決できなければ、両国の関係と当地の華僑の生存や発展に影響を落とすであろうとされたのである。
1950年8月1日、周恩来首相がラオスの駐中大使と会見した際、華僑とミャンマー人の結婚と入籍の関係について尋ねている【10】。1954年12月、ミャンマー首相ウー・ヌーが初訪中し、会談後「華僑の国籍問題については、両国政府が早期に解決できるよう尽力し、正常な外交を通して話し合いを進めていく」と表明した【11】。1955年10月13日、ミャンマーの駐日大使吴拉茂が中国側に対し、「中国政府はミャンマー国籍を取得した華僑が中国籍を放棄することに同意するかどうか」と尋ねている。ミャンマーは中国側と「二重国籍」問題を話し合いにより解決しようとしたのである【12】。それに対し、中国側はただちに研究と討論を行い、共同声明を起草し、ミャンマー側の要求に同意する準備を整えた【13】。しかし、間もなく中国は態度をかえ、ミャンマー政府の目的が「華僑の国籍問題の全面的な処理について話したり、引き伸ばしたりするために、一方的な協議を行い、勝手に取捨選択し、主導的な立場をとろうとしている。」と考えたのである【14】。そのため、中国側は対応をせず、ミャンマー側の要求に応えることはなく、双方の話し合いが進むことはなかった。このような状態であったが、中国のミャンマー華僑の入籍については積極的に支持する態度をとり、華僑がミャンマー籍に入ることを「政治上も経済上も我が国にとって有利であり、大量の華僑がミャンマー籍に入る方針をとるべきである」【14】。「華僑がミャンマー籍に入ることは、我々にとって完全に有利なものである」【13】と考えた。
1956年6月22日、周恩来はミャンマー大使と会見した際、「中国の基本精神は、さらに多くのミャンマー生まれで、かつミャンマー居留希望の華僑が居留国の公民籍を取得することに賛成である」【15】と表明した。これは、中国がミャンマー華僑への国籍授与を受け入れたという意味である。1956年12月18日、周恩来はヤンゴンでの華僑主催の歓迎大会で、華僑とミャンマー側に対し、「華僑同胞たちの居留が長い年月となり、ここで長期的な生活をし、当地の国籍を取得したのであれば・それはミャンマーの公民となったということである」と正式に表明した。これは「自らの選択さえあれば、それは当地の法律に則り、居留国の国籍取得した後はもう中国人民ではない」【16】ということである。
したがって、中国・ミャンマー双方の華僑「二重国籍」問題協議は終わったようにみえたが、1956年周恩来首相のヤンゴン発言では、中国はミャンマーにおける華僑の長期居留の歴史的特性を理解し、尊重し、長期居住している在ミャンマー華僑の入籍について肯定し、奨励するだけではなく、「二重国籍」に反対したのである。20世紀50年代初め、ミャンマーには中国・ミャンマーの混血が約14万人おり、二代以上が8万人前後いた。ミャンマー側はこの22万人にも当然ミャンマー国籍を与え、中国側も彼らのミャンマー籍への入籍を支持し、同意をした。しかし、彼らは、出身はミャンマーであるというアイデンティティがあり、ミャンマーの駐中大使吴敏登は、「この中国・ミャンマー人は自分をミャンマー人と思っているようだが、ミャンマー政府は最初の登記を(外華)でしており、彼らが登記に来ることは非常に少ない。実際に、彼らがミャンマーにいる時は中国名を使わない。」、「ミャンマーには、広東人、福建人が多くいる、ミャンマー人は彼らはミャンマー人と見るし、中国人から見れば彼らは中国人なのだ。しかし彼らの妻子や母親はミャンマー人だ。」【17】と紹介している。従って、ミャンマー独立後の華僑の中には「二重国籍」問題を抱える者は26万人前後だが、双方が混血や二代以上の華僑の国籍問題では一致した見解を持っており、彼らの華僑としてのアイデンティティによって「二重国籍」者の85%の国籍問題は解決を見たとしている。
中国・ミャンマー両国における華僑問題の共通意識は重要ではあるが、ミャンマー政府の、華僑が中国の駒となるのではという猜疑心を払拭する必要があり、また、さらに重要なことは、華僑が法律上の身分を明らかにした後の政治の一体化や経済作用問題なのである。
3.華僑政治問題
冷戦時、東南アジア華僑はかつて国に属し、中国を浸透させ、潜在的な「第五縦隊」の拡張をするものとみなされ、往々にして民族主義と意識形態の二重の攻撃目標となっていた。マレーシア政府は華僑とマレーシア国内政治との関係に十分に関心を寄せており、中国が華僑を利用して内政干渉することを恐れていた。
たとえば、1956年8月25日、ラオスの駐中大使吴拉茂が周恩来首相に接見した際、華僑が「民族戦線」の選挙戦に立候補した人物に経済的援助をし、「彼らはミャンマー人と組んで商売を行い、得た利潤のいくらかを選挙戦における資金援助として提供している。候補者が外地で立候補した際、紹介状を書き、現地の華僑に引き合わせ、金銭を渡すこともある」と報告している。周恩来はこれに対し、「中国政府の華僑政策とは、もし彼らが華僑の身分で、在住する国の公民ではない場合、彼らは当地の政治活動に参加することはできない。」「我々はこの政策を遵守するものである。もし華僑がミャンマー国籍を取得しておらず、且つ、大使の言う通りであるならば、我々は喜んでこの点をミャンマー政府に示すものである。このように我々はミャンマー政府と共にあるのだ。ミャンマー政府は中国政府と華僑が一つとなっていると見るべきではない。華僑がどんなミャンマー人と資本を出し合い、商売をしようと、金の用途が何であろうと、ミャンマー政府には検査をする権利がある」【18】と言及している。後に、中国側の疎通と努力の結果、ウー・ヌーは、「多くの非難やこのような指摘には根拠がない」と、再び言及することはなかった【19】。
1960年、ミャンマー前首相バー・スエが周恩来に対し、1960年、ミャンマー「大選挙前に各地で赤い華僑が廉潔派に経済的援助をし、廉潔派が湯水のように金銭を使っている。首相に制止していただきたい。各地の廉潔派指導者は個人名義で華僑商人に金銭を要求すると、商人が金をくれるのです。」と述べた。周恩来首相は、「中国政府の政策は非常に明快であり、まだミャンマー籍ではない華僑はミャンマーの政府活動に参加するものではない。私は華僑たちに何度も話してきている。大使館でもこの政策に基づき華僑の教育を行っている。」と回答した。中国の駐ミャンマー大使も、「大選挙前に我々も領事部を招集し、ミャンマー籍未加入の華僑に話をし、彼らにどんなことがあってもミャンマーの政府活動に参加するものではないと伝えてある。」【20】と報告した。同時に周恩来首相は、ミャンマー側に対し、ヤンゴンの中国銀行がウー・ヌーを支持している問題を指摘し、「ある政党が商人に寄付金を募っているが、我々はこれに反対する。しかし、何人かの商人はその人物の影響下にあり、おそらく献金しているのだろう。」【21】と言及した上で、ミャンマー政府が中国銀行の帳簿を検査する権利があると表明した。
実際に、1954年以降中国・ミャンマー上層部の相互訪問が始まった頃、中国側は華僑の政治問題への態度をミャンマー側に表明していた。1954年12月、毛沢東がミャンマーを初訪問した際、ウー・ヌー首相に対し、「我々は華僑においては共産党を組織せず、支部も既に解散している。インドネシアやシンガポールでも同様である。我々はミャンマー華僑に国内の政治活動には参加するなと言い聞かせているが、祝賀活動などの一部の活動についてはミャンマー政府に参加の許可をいただきたい。他の活動については参加する必要はない。さもなくば、我々は非常にに苦しく思い、事がうまく運ばないだろう」、「ミャンマー華僑の中にも過激な分子がおり、我々は彼らにミャンマーの内政干渉はするなと忠告している。我々は彼らを居留国の法律に服従させようと教育しており、武装によりミャンマー政府の政党と連携をとるようなことはしたくない」【22】(pp.376-377)と言明した。
1956年12月18日、周恩来はヤンゴンでの華僑主催の歓迎大会上において、華僑とミャンマー側の関連部門に対し、以下のような態度を表明した。華僑は「華民の地位を遵守し、よい華民、法を守る華民、模範となる華民となれ。」と話した。入籍した華僑と未入籍した華僑は政治上明らかに分かれており、入籍した者は、華僑の団体に参加するべきではなく、華僑はミャンマーの政治活動に参加するべきではないとし、「例えば、彼らの政党、選挙、ミャンマーの全ての政治組織に、参加することはできない。これはしっかりと線を引いておくべきである。」、「同時に、我々も華僑においては共産党の発展や外の民主党派の組織を持たず、これもやはり一線を引いておくものである。政党に参加するのは帰国後にするもので、現地ではできない」【16】。これ以外にも、この訪問中に周恩来はミャンマー首相に対し以下のような態度を表明している。「政治上の我々の態度は、すでにミャンマーの選挙権を得た者は全てミャンマー公民であるとし、彼らは中国国籍を再び取ることはなく、華僑の団体や活動にも参加することはできないと同時に、もし依然として中国国籍を持っている華僑がいたならば、彼らはミャンマーの政治活動には参加するものではない、ということである。」【23】(p.647)。1956年のヤンゴンでの周恩来総理による華僑政治問題への明確な態度表明を除くと、ある華僑老人がヤンゴンで筆者に対して話してくれた。周総理が9回にわたるミャンマー訪問の中で、「ほぼ毎回、公式の場で、華僑は現地の政治活動に参加しなくてもよいと言っていた」【24】と。
20世紀50年代の華僑の政治問題は波乱に満ちてはいたが、総じて言うと、中国政府の華僑の政治問題における態度と承諾は、多くの華僑を現地の政治の手から遠ざけ、ミャンマーの華僑政治問題への憂慮をおさめるものであったと言える。
4.華僑経済問題
華僑の経済力とその影響は戦後の東南アジアの新興民族主義国家が華僑を猜疑し、用心する原因の一つであった。一方で、長らく「華僑が東南アジアの国家経済の命脈を支配している」という非難が、政治のエリートや極端な民族主義分子、さらには利益集団の中にあり、排華活動が立ち上がる主要な口実となっていた。経済民族主義とは、戦後東南アジアの民族主義運動の核心の一つであった。東南アジア国家は、1945年から相次いで始まった政治的独立後、直ちに経済措置をとり、経済上での独立をはかってきた。ミャンマー独立前は、主要なミャンマー経済はイギリス植民者、インド人、華僑の手中にあった。1948年のミャンマー独立後、経済のミャンマー化が重要政策の一つとなったのである。20世紀50年代、土地、銀行、不動産業、鉱業、商品貿易等がミャンマーの経済民族主義における主な矛先となった。ミャンマー華僑社会は一つの商業社会となっており、大部分の華僑が商工業に従事していた。そのため、「ミャンマー人の商品貿易が優先」という経済民族化政策の流れの下、華僑経済は大きな影響を受けることになった。
東南アジアの各所で発生したこのような変化に対して、中国側が華僑経済と現地の民族経済における矛盾、「主に華僑商業経済と現地民族経済の矛盾」を考えるようになっていた。東南アジアの民族経済は急速に発展しようとしており、まずは商業という戦地を奪い、華僑商業経済も制限や排斥という受難を受けるようになっている。現地政府は法律を駆使し、各業種に民族同化的な政策を推進し、経済陣地を奪おうとしていた。「我々は華僑資本が雇用労働に転じることを提起する。無論、華僑と華僑が住む国の人民の長きに渡る矛盾を解決する方法であるが、また、華僑経済と現地経済の矛盾の緩和を模索するものでもあり、政治において主導的に解決する方法でもある」【25】(pp.228-230)とした。当時のミャンマー政府の、経済分野における「ミャンマー化」の実施は、制限があるばかりではなく、商品貿易、輸出入業などに集中し、外僑のミャンマー工業への投資を奨励するものであった。1956年、周恩来総理がミャンマーを訪問中、ミャンマー首相バー・スエは、「華僑がミャンマー政府のために開業し商売を行い帰国した後には、遊資が発生する。もしその遊資をミャンマー工業へ投資するのであれば、ミャンマー政府は同意するし、協力も惜しまない」【19】と表明した。
1956年、周恩来のミャンマー訪問の際、華僑に対し、華僑がミャンマーに長く留まり、安心して暮らしていくには、長期的な計画を練る必要がある。時には携わっている商業が不安定となることもあるが、工業への投資は将来性がある、と発言している。「工業の利潤はやはり時間がかかるものではあるが、安定性もある。真の企業家はここを掘り下げ、自らの遊資をミャンマーとミャンマー人の友好協力へ投資したり、ミャンマー政府の許可を得て工業経営、手工業など、自らの事業に長期的な計画を見出すことができる。我々はミャンマー国家建設に尽力できるのである」【16】とも話した。
中国政府は華僑の商業から工業への転化を政策上奨励するだけはなく、技術、設備においても援助を行った。例えば、50年代中後期に起こった、ミャンマー華僑とミャンマー政府の共同経営の製紙工場問題に焦点をあてると、中国外交部、外貿部、軽工業部等の関係機関が協議した結果、華僑に対し、利潤を考えると、国営に戻す期限や、国営に戻したあとの出資金返金問題、経営管理人員の派遣問題において、「高条件を出さず、できるだけミャンマー政府の懸念を増やさないようにするべきである」と提案した。同時に、機器・技術面ではできるだけ支援し、「我が政府が華僑が商業から工業への転向を支持していることを示す」【26】とした。この時期、中国駐ミャンマー大使館にも、「華僑の工業は歴史は短く、基礎も脆弱といえども、新しい力とともに、ミャンマー経済全てを発展の方向へと結びつけんとするものである。これが唯一の正しい方向であり、ミャンマー経済の需要と利益に符合するばかりではなく、華僑が長期にわたり、生存し、利益を得ていくこととも符合するのである。今後、華僑の経済は現地に目を向け、現地の人民に目を向け、ミャンマーの民族経済を発展の軌道へと導くものである。ミャンマーの民族の経済発展と反映、そしてミャンマー人民の生活水準の引き上げのために積極的な役割を果たすものである」【27】と表明した。
その一方で、一部の華僑が手段を選ばす利益を貪り、現地政府や民衆の不満をもたらしていた。1956年、ミャンマー首相バー・スエは周恩来に対し、「大部分の華僑はすばらしい、しかし一部の商売を営む華僑が闇相場を利用し、市場へ影響を与えようとしている。ミャンマー政府は華僑がその資本を工業へとむけてくれることを願っている」【19】と表明した。それに対し、周首相はミャンマー華僑に対して、「商売を営む者は言うまでもなく、各企業を営むものは、全てミャンマー政府の法律に準拠しなければならない。それに異議を唱えるべきでもなければ、便宜を図ろうとするべきでもない。」と指示した。多くの人民が不利な立場となる市場価格の吊り上げや、闇市場、不義の金による儲けはするべきではなく、「正当な商人であれ、模範となる商人となれ」【16】と指導したのである。
華僑の政治問題と比較すると、両国政府の正確な指導と、華僑が商業から工業へ転じたことを除くとミャンマー華僑の経済問題は突出しているわけではない。華僑の経済力は印僑に比べ遜色があり、印僑の経済問題のほうがはるかに人目をひくものとなっているのである。
5.民族関係問題
現地住民と生活を共にすることで、華僑は現地において長期生存しながら発展し、民族主義の圧力から解き放たれ、自らの利益を保障し、居住国と原籍国の橋渡しとなってきた。
華僑は外来移民であり、現地民族と交わることで、主流社会へとけこんでいくために、積極的かつ合理的な意識を有していたことは言うまでもない。これに対し、周恩来首相は華僑に対し、ミャンマー人と交わるとき、「大国主義」や、尊大な思想は不要であり、「謙虚かつ慎重であれ。そうしていれば、仕事はうまくいくし、人間関係もうまくいき、国家の関係もうまくいくのである」【16】と戒めた。この周恩来の講話について、ヤンゴンの「人民報」編集長李軍氏は、「1956年の周恩来講話の際、私はその場にいた。講話の影響は大きく、それから華僑思想は少しずつ変化し始めた、つまり、大漢族主義思想からの変化が始まったということである」【28】と振り返っている。
ミャンマーは仏教国であり、大多数が仏教を信仰している。仏教はミャンマー文化の基礎であり、中心なのである。生活習俗は生活文化の一つを成し、各民族が長い歴史の中で、飲食、服飾、居住、婚姻、葬祭、祝祭日、娯楽等、さまざまな方面で異なった風俗習慣を形成してきた。これは、各民族の歴史や伝統、心理的素質、宗教観を反映しており、各民族の特徴を表す重要なものとなっている。そのため、現地の宗教信仰、生活習慣を尊重し、受け入れることは、主流文化との親疎を意味づけ、ミャンマー人が華僑を受け入れ、認めることをある程度意味づけるものである。そのため、中国指導者は「華僑はその国の風俗習慣を尊重し、宗教信仰を尊重しなければならない。我々は個人の視点で、友情を築きあげ、さらに親戚となるべくしなければならない。そうすることで、我々が長くここに留まり、友好を以って交わっていくことができるのである」【16】と指導している。
周恩来は華僑とミャンマー人との婚姻を奨励した。彼は「これは非常に良いことである。ミャンマーの友人たちと語らい、多くのミャンマーの友人たちと我が国の友人たちが血縁関係を持つ、このような親戚国家は中国にとっても幸運なのである。」「自分の親戚とミャンマーの友人が結婚したという者は少なくない。こんな良い親戚を持ったことを、我々は祝わなければならないだろう」【16】と考えた。華僑と現地人の婚姻を奨励する目的について、早い時期では、1951年8月に周恩来が政務院第99回会議上で、「華僑は東南アジアに1000万以上いる。華僑と現地の人民との結婚は、制限するべきではなく、むしろ奨励するべきである。彼らの婚姻を奨励さえすれば、同化が進み、才能も人もさらに前進するだろう」【23】と表明していた。
言語は文化の象徴であり、交流のツールでもある。華僑が外来移民として現地の言語を習得するか否かは、すなわち、現地社会への融合や現地民衆との良好な族群関係を築けるか否かということである。周首相はミャンマー華僑にミャンマー語の学習をすすめ、ミャンマー人と直接感情のこもった交流をしていくよう指示した。「あなたたちは、外国語の学習は非常に面目をつぶすものとして、嫌いでしょう。多くの人が外国に住んで数十年たっています。彼らは外国語が全く分かりません。」「私は海外の華僑同胞に、外国での外国語学習をお勧めします。ミャンマー華僑の若い世代は、ミャンマー語を習得しなければなりません。」「華僑新聞にミャンマー語をさらに増やしていくといいでしょう。我々華僑は、中国語を読み、さらにミャンマー語も読めるようになるのです。華僑学校ではミャンマー語は必修科目とするべきです。」【16】と述べた。中国側の配慮と指示により、ミャンマー華僑は「50年代からミャンマー語学習と教育の強化を始め、数年後には大きな成果を出した」【29】のである。1957年9月、全ミャンマー華僑教育の最高指導機構のミャンマー華僑教師連合会は、華僑学校でのミャンマー語教育の強化を決議し、ミャンマー語の時間を増やしたのである。一部の華僑学校はさらに、「一つの学校、二つの学制」(中国語、ミャンマー語)を実行することとなった。
おわりに
東南アジア研究の代表的な歴史学者布赛尔はかつて、戦後東南アジアに「植民者の撤収と中国における共産党の権力掌握は、華僑が拠り所としていた二つの対象が同時に変化したことを意味しており、これが華僑の命運を左右する最大の要因となったのである」【30】(p.371)と指摘した。時代のめまぐるしい変化が、華僑の命運にさまざまな変化を及ぼし、華僑の法律的身分、政治の一体化、経済作用、現地民族との関係に現れてきた。東南アジアの新興民族主義国家における華僑は、これらの問題に直面しているが、各国の華僑人口、経済勢力、同化状況、中国と居留国との関係などが異なり、情況も異なる。戦後東南アジア諸国の華僑に比べ、ミャンマー華僑は多いわけではない。経済勢力も制限され、同化も比較的進み、華僑とミャンマーの民族関係も比較的打ち解けており、華僑問題は中国-ミャンマー関係において突出した問題とはされていない。しかし、この情況を生み出した最大の要因は、ミャンマーの対中政策と、中国の対ミャンマー政策の致すところなのである。
20世紀50年代、ミャンマーは、新中国が国家の安全をおびやかすのではないかという恐れと共に、中国のような大国と友好関係を保持する必要性と重要性を表明してきた。そのため、「ミャンマー政府は地縁政治は変えられないということは明白である」、「ミャンマーの中立主義は国家の利益に基づき、選択された政策の一つである。正直に言えば、ミャンマーの国家利益は、つまりは中国共産党と敵対することではない。」さらに、中国がミャンマーによって欧米の包囲戦略の突破口の一つを封鎖したものとみなしているということである。この大きな枠組みからミャンマー華僑問題を眺めてみると、双方の関係における華僑問題は、、両国の国家利益の高い部分で符合し、服従するものなのである。ミャンマー側から見ると、ミャンマー政府は華僑問題で中国を怒らせたくないのである。中国側から見れば、華僑の利益を保護し、中国・ミャンマー関係の大局において二者が衝突するようなことがあれば、僑務は外交に従うというものである。そのため、当時のミャンマー政府は華僑に対し制限を課すだけではなく、利用し、華僑はミャンマー民族主義の圧力を与えるだけではなく、生きる道を与えていたのである。中国政府は華僑の国籍選択、政治、経済、民族関係の問題に対する政策について、華僑を「第五縦隊」とする疑念を払拭し、両国関係の発展への障害とならないよう、終始華僑に取り巻き、華僑が現地で長期生存し、発展をとげるよう手助けをしてきたのである。
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[13]关于缅甸华侨国籍问题的请示及补充意见[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00510-03(1).
[14]外交部亚洲司编写的关于缅甸华侨双重国籍问题的资料[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00510-10(1).
[15]周恩来总理会见缅甸驻华大使吴拉茂谈话纪要(1956年6月22日)[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00307-02(1).
[16]周恩来总理在缅甸仰光华侨欢迎大会的讲话[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00510-08(1).
[17]章汉夫外长会见缅甸大使吴敏登的谈话记录[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00002-02(1).
[18]周恩来总理会见缅甸驻华大使吴拉茂谈话纪要(1956年8月25日)[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00307-03(1).
[19]周恩来总理访问缅甸同缅方领导人谈话要点[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:203-00019-02(1).
[20]周恩来总理会见缅甸前总理吴巴瑞谈话记录[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:203-00036-04(1).
[21]周恩来总理访问缅甸会谈及会见情况摘要[Z].中华人民共和国外交部档案,原档号:203-Y0036.
[22]毛泽东文集:第6卷[M].北京:人民出版社,1999.
[23]中共中央文献研究室.周恩来年谱1949-1976:上卷[Z].北京:中央文献出版社,1997.
[24]笔者对缅甸华侨叶克清的访谈[Z]. 2005-11-08,缅甸仰光。
[25]党和国家领导人论侨务工作[Z].北京:国务院侨办《侨务工作研究》编辑部、国务院侨办秘书行政司档案室,1992.
[26]关于缅甸华侨与缅甸政府合营造纸厂的问题[Z].中华人民共和国外交部档案,档号:105-00339-07(1).
[27]中国驻缅甸大使馆领事部编.仰光华侨经济调查[R].1958-10-15.(出版项不详)
[28]笔者对缅甸归侨李军的访谈[Z].2003-12-06,昆明。
[29]笔者对缅甸归侨冯励冬的访谈[Z].2003-04-23,厦门。
[30]Victor Purcell. Chinese Society in Southeast Asia[A].John T. McAlister, Jr.ed.. Southeast Asia: The Politics of National Integration[C].New York, Random House, 1973.
(「南洋問題研究)2007、第一期)
Kyoto Review of Southeast Asia Issue 10 (August 2008)
(アモイ大学 東南アジア研究センター 福建 アモイ 361005)
華僑問題は冷戦時における中国と東南アジア国家との関係の中で重要な問題のひとつである。2004年1月と2006年5月に中国外交部は二回に渡り、20世紀50年代の機密外交文書を公開した。しかしながら、国内の華僑研究者、東南アジアの学者は未だこの最新の書類を利用していない。本文は外交部が新たに公開した機密文書を基礎とし、当時の中国・ミャンマー関係における華僑問題(国籍問題、政治問題、経済効果、民族関係問題)について歴史的考察するものである。
Kyoto Review of Southeast Asia
Issue 10 (August 2008)
© Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University
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